14 対仏略奪戦に勝利したイギリスの過去1
2020年2月1日14 対仏略奪戦に勝利したイギリスの過去1
―植民地ビジネス―
■フランクフルトの理由
最初に断っておくが、
例の「英国EU離脱」ドラマに関し、
巷間であれこれ取り沙汰されているのと異なった
視点から、このテーマに迫ってみたくなり、
従って、今回は上中下三回にわたって
レポートすることにした。
ヨーロッパは、幼少のころから私にとって
憧れの地だった。
その憧れの地での移住が実現したのは、
一九六八年の五月のこと。
最初はスイスのチューリッヒに一年、
その後ドイツへ移動し、以来、
半世紀にわたってフランクフルトに
棲み着くことになり、
そういう意味ではフランクフルトは、
私にとって、第二のふるさとになってしまった
(ような気がする)。
しかしそれにしても、元来、放浪癖のある私がなぜ、
フランクフルトに根を下ろしてしまったのか。
理由は三点ある。
一点は、偶然、フランクフルト土地っこである青年
〈=現配偶者〉とフランクフルト大学で知り合い、
結婚し、ときどき派手な夫婦喧嘩をするものの、
最終的には、どちらかが折れることで
仲直りして今日に至っていること。
二点は、そのフランクフルトが、ちょうど地理的に
欧州大陸の中心部に位置していて、
北部欧州大陸から地中海沿岸諸国主要都市に至って、
半径約二〇〇〇キロ以内に収まる位置にあるばかりか、
フランクフルトには、
ロンドンのヒースロー空港、
パリのシャルル・ド・ゴール空港と並ぶ
大型空港があり、飛行時間ほぼ二時間以内で
目的地に到達出来ること。
三点は、当地は第二次世界大戦以後、
世界最大規模のCIA支部
(約一〇〇〇人の諜報課員=スパイが常駐)があり、
従って情報収集に事欠かないこと
(もっとも私の耳に入ってくる情報など
実に些細なもので、取るにたらないのだが……)。
という訳で、フランクフルトに在って
これまで、何か西ヨーロッパでことが起きると
(たとえほんの些細な噂話程度であっても)、
居ても立ってもいられなくなって、
北はモスクワ、南はイベリア半島、
さらに北アフリカまで飛び、
現地のナマ情報を拾ってきた。
「百聞は一見にしかず」とはよく言ったもので、
ゆく先々ではそれぞれ、
それなりの貴重な情報が転がっていて、
それを発見するだけでも、私にとっては大収穫であり、
新鮮な気分に浸れたのだ。
そういえば、スイスに到着して、確か二週間目
だったと思う。
少女時代からずっと憧れ続けてきたロンドンとパリは、
何が何でもいの一番に見学することに
決めていたこともあって、
早速、るんるんサイトシーイングで訪れたときのこと。
その私の両国に対する最初の印象だが、
ロンドンに着き、ある英国紳士と
ホテルのロビーで軽い会話を交わしたとき、
何気なく英国の呼び名を「イングランド」と言ったところ、即座に「グレート・ブリテン」と訂正された。
一方、その後、飛んだパリの空港では
スチュワーデスに英語で話しかけたところ、
露骨にいやな顔をされ聞かなかった振りをされ、
再び、今度は大声で繰り返したところ、
私のすぐ後にいた見知らぬ外人から、
「ここはフランス。フランス語で話さなくちゃあ」
と注意され、
「聞くと見るとでは大違い」とはよく言ったものだ
と思った。
と同時に、その理由が知りたくて、ある時、
知人のドイツ人に尋ねてみたところ、
「英国とフランスというのは、古くから、
というより、とりわけ近世に入ってからというもの、
互いにライバル意識を剥き出しにして、
何かことがあると睨みあい、ケンカしてきた。
仲良くしてきたのはほんの一時期で、
しかも見かけだけ。
その歴史を今日に至っても引きずっている。
しかも消えるどころか、
逆にオモテに出てこない分、陰湿になってきている」と……。
ということは、今回の「英国EU離脱」も、
そもそもその原因を突きつめていくと、
最終的には、英仏の積年の恨みつらみ
(とりわけフランス側の)が、ここへ来て再び、
表面化してきたということか。
■仲の悪い英仏が
そもそも英仏両国の仲の悪さのきっかけは古きに遡る。
十三世紀にヴェネツィア商人マルコ・ポーロが
シルクロード経由で中国やインドなどアジアを旅し、
『東方見聞録』として世に紹介したことから、
これに触発されて、
十五世紀に入ると、ヴァスコ・ダ・ガマが
約三ヶ月の航海でアフリカの南端喜望峰に
到着しインド洋に入った。
次いでフェルディナンド・マゼランが
史上初の世界一周を行った。
さらにクリストファー・コロンブスが
アメリカ大陸を発見した。
ことここに至って、ヨーロッパでは海外に対する
関心が一挙に高まり、
当時の大航海先進国ポルトガルに続いて、
スペイン、フランス、オランダ、イギリスが
国を挙げての植民地収奪合戦へと突入していった。
中でも英仏両国による植民地拡張合戦は熾烈で、
インドでは
「第1次、2次、3次カーナティック戦争
(一七四四―六一年)」や
「プラッシーの戦い(一七五七年)」、
北米カナダでは
「フレンチ・インディアン戦争(一七五四―六三年)」
で正面衝突し、
結果、フランスは全て英国に勝ちを譲ってしまった。
一方英国はその勝ち馬に乗って、
マレーシア、インド、南アフリカ、ナイジェリア、
ガーナ、イラク、エジプト、オーストラリア、
ニュージーランドを植民地にした上、
ペルシア湾近辺のサウジアラビア、バーレーン、
クエートにおいては、制海権を握り
保護領(=半植民地)にし、
たとえば、日本人御木本幸吉が人工パールの
作成法を発見するまで、
これらの国の特産物天然真珠に目をつけ、
バーレーンの首都マナーマを集積地とし
ボンベイに出荷し、
ここを中継地にロンドンなど
ヨーロッパ各主要都市の宝石商人との
利権ビジネスをほぼ八割くらい保護独占した。
一方フランスの植民地はアジアでは
ベトナム、ラオス、カンボジア、
北アフリカのアルジェリア、チュニジア、マリに
限られてしまった。
しかしそれにしても、
こと植民地に関してフランスの後追いをしていた
英国が、やがてそのフランスをいとも簡単に
追い越し撃破し七つの海を傘下におき、
自他共に植民地主義的な大国=帝国として、
二十一世紀の今に至ってもなお、
その名をほしいままにした威力とは一体、
何だったのだろうか。
一つは、英国が島国で、大陸と一線を画してきたこと。
つまり海峡突破によってイギリス侵攻を試みた
ナポレオンによる
「トラファルガー戦役(一八〇五年)」が
見事に失敗したように、
海が英国の、難攻不落の強固な「壁」となり、
この国を戦場にすることを回避した。
十八世紀に内陸で勃発した
ドイツ対仏、露、オーストリアとの
「七年戦争(一七五六―六三年)」など所詮、
海の向こうの出来事にすぎず、
「他岸の火事」で高みの見物でいられた。
二つは、それゆえに、独自の諜報機関構築が
可能となり、ときには海賊にも変身し
他国船を襲撃する中、
その都度彼ら敵の海男を捕虜にし、
豊富な情報収集に当たり、
攻撃材料の道具として活用したばかりか
本国ビジネスに応用した。
とりわけ英国が好んで活用した植民地ビジネスに
十七世紀頃から始まった「三角貿易」がある。
当時、活気のあったリヴァプールやプリストルの
港を利用し、出港した貨物船に、
英国製特産物とはいうものの、
その実、多くは自国製の武器を積み込み、
これをアフリカまで運ぶ。
そして現地の奴隷狩り商人
多くはアフリカ人現地有力ボス)に売りつけ、
ついでアフリカ黒人奴隷を買い、
西インド諸島や北米大陸に運び奴隷市場で売買する。
そして空になった船に、
欧州では珍しいタバコや綿花など南米産の商品を
積み込み本国に持ち帰る。
これに味をしめた英国!
十九世紀に入ると、アジアの植民地にも
この三角貿易を適用し
インド産のアヘンを中国に輸出し、
代わりに中国から本国に中国茶を運ぶ
独占ビジネスに着手し、
結果、暴利をむさぼり、
巨万の富を蓄えることになった。
この対英国植民地獲得戦争で
血にいっぱいまみれたフランスの怨恨たるや
いかばかりだったか。想像に難くない。
ところがあろうことか、
十九世紀に入ると、そのフランスに英国が、
しきりに友好サインをちらつかせ始めたのだ。
一体、この両国に何が起こったのだろうか。
―植民地ビジネス―
■フランクフルトの理由
最初に断っておくが、
例の「英国EU離脱」ドラマに関し、
巷間であれこれ取り沙汰されているのと異なった
視点から、このテーマに迫ってみたくなり、
従って、今回は上中下三回にわたって
レポートすることにした。
ヨーロッパは、幼少のころから私にとって
憧れの地だった。
その憧れの地での移住が実現したのは、
一九六八年の五月のこと。
最初はスイスのチューリッヒに一年、
その後ドイツへ移動し、以来、
半世紀にわたってフランクフルトに
棲み着くことになり、
そういう意味ではフランクフルトは、
私にとって、第二のふるさとになってしまった
(ような気がする)。
しかしそれにしても、元来、放浪癖のある私がなぜ、
フランクフルトに根を下ろしてしまったのか。
理由は三点ある。
一点は、偶然、フランクフルト土地っこである青年
〈=現配偶者〉とフランクフルト大学で知り合い、
結婚し、ときどき派手な夫婦喧嘩をするものの、
最終的には、どちらかが折れることで
仲直りして今日に至っていること。
二点は、そのフランクフルトが、ちょうど地理的に
欧州大陸の中心部に位置していて、
北部欧州大陸から地中海沿岸諸国主要都市に至って、
半径約二〇〇〇キロ以内に収まる位置にあるばかりか、
フランクフルトには、
ロンドンのヒースロー空港、
パリのシャルル・ド・ゴール空港と並ぶ
大型空港があり、飛行時間ほぼ二時間以内で
目的地に到達出来ること。
三点は、当地は第二次世界大戦以後、
世界最大規模のCIA支部
(約一〇〇〇人の諜報課員=スパイが常駐)があり、
従って情報収集に事欠かないこと
(もっとも私の耳に入ってくる情報など
実に些細なもので、取るにたらないのだが……)。
という訳で、フランクフルトに在って
これまで、何か西ヨーロッパでことが起きると
(たとえほんの些細な噂話程度であっても)、
居ても立ってもいられなくなって、
北はモスクワ、南はイベリア半島、
さらに北アフリカまで飛び、
現地のナマ情報を拾ってきた。
「百聞は一見にしかず」とはよく言ったもので、
ゆく先々ではそれぞれ、
それなりの貴重な情報が転がっていて、
それを発見するだけでも、私にとっては大収穫であり、
新鮮な気分に浸れたのだ。
そういえば、スイスに到着して、確か二週間目
だったと思う。
少女時代からずっと憧れ続けてきたロンドンとパリは、
何が何でもいの一番に見学することに
決めていたこともあって、
早速、るんるんサイトシーイングで訪れたときのこと。
その私の両国に対する最初の印象だが、
ロンドンに着き、ある英国紳士と
ホテルのロビーで軽い会話を交わしたとき、
何気なく英国の呼び名を「イングランド」と言ったところ、即座に「グレート・ブリテン」と訂正された。
一方、その後、飛んだパリの空港では
スチュワーデスに英語で話しかけたところ、
露骨にいやな顔をされ聞かなかった振りをされ、
再び、今度は大声で繰り返したところ、
私のすぐ後にいた見知らぬ外人から、
「ここはフランス。フランス語で話さなくちゃあ」
と注意され、
「聞くと見るとでは大違い」とはよく言ったものだ
と思った。
と同時に、その理由が知りたくて、ある時、
知人のドイツ人に尋ねてみたところ、
「英国とフランスというのは、古くから、
というより、とりわけ近世に入ってからというもの、
互いにライバル意識を剥き出しにして、
何かことがあると睨みあい、ケンカしてきた。
仲良くしてきたのはほんの一時期で、
しかも見かけだけ。
その歴史を今日に至っても引きずっている。
しかも消えるどころか、
逆にオモテに出てこない分、陰湿になってきている」と……。
ということは、今回の「英国EU離脱」も、
そもそもその原因を突きつめていくと、
最終的には、英仏の積年の恨みつらみ
(とりわけフランス側の)が、ここへ来て再び、
表面化してきたということか。
■仲の悪い英仏が
そもそも英仏両国の仲の悪さのきっかけは古きに遡る。
十三世紀にヴェネツィア商人マルコ・ポーロが
シルクロード経由で中国やインドなどアジアを旅し、
『東方見聞録』として世に紹介したことから、
これに触発されて、
十五世紀に入ると、ヴァスコ・ダ・ガマが
約三ヶ月の航海でアフリカの南端喜望峰に
到着しインド洋に入った。
次いでフェルディナンド・マゼランが
史上初の世界一周を行った。
さらにクリストファー・コロンブスが
アメリカ大陸を発見した。
ことここに至って、ヨーロッパでは海外に対する
関心が一挙に高まり、
当時の大航海先進国ポルトガルに続いて、
スペイン、フランス、オランダ、イギリスが
国を挙げての植民地収奪合戦へと突入していった。
中でも英仏両国による植民地拡張合戦は熾烈で、
インドでは
「第1次、2次、3次カーナティック戦争
(一七四四―六一年)」や
「プラッシーの戦い(一七五七年)」、
北米カナダでは
「フレンチ・インディアン戦争(一七五四―六三年)」
で正面衝突し、
結果、フランスは全て英国に勝ちを譲ってしまった。
一方英国はその勝ち馬に乗って、
マレーシア、インド、南アフリカ、ナイジェリア、
ガーナ、イラク、エジプト、オーストラリア、
ニュージーランドを植民地にした上、
ペルシア湾近辺のサウジアラビア、バーレーン、
クエートにおいては、制海権を握り
保護領(=半植民地)にし、
たとえば、日本人御木本幸吉が人工パールの
作成法を発見するまで、
これらの国の特産物天然真珠に目をつけ、
バーレーンの首都マナーマを集積地とし
ボンベイに出荷し、
ここを中継地にロンドンなど
ヨーロッパ各主要都市の宝石商人との
利権ビジネスをほぼ八割くらい保護独占した。
一方フランスの植民地はアジアでは
ベトナム、ラオス、カンボジア、
北アフリカのアルジェリア、チュニジア、マリに
限られてしまった。
しかしそれにしても、
こと植民地に関してフランスの後追いをしていた
英国が、やがてそのフランスをいとも簡単に
追い越し撃破し七つの海を傘下におき、
自他共に植民地主義的な大国=帝国として、
二十一世紀の今に至ってもなお、
その名をほしいままにした威力とは一体、
何だったのだろうか。
一つは、英国が島国で、大陸と一線を画してきたこと。
つまり海峡突破によってイギリス侵攻を試みた
ナポレオンによる
「トラファルガー戦役(一八〇五年)」が
見事に失敗したように、
海が英国の、難攻不落の強固な「壁」となり、
この国を戦場にすることを回避した。
十八世紀に内陸で勃発した
ドイツ対仏、露、オーストリアとの
「七年戦争(一七五六―六三年)」など所詮、
海の向こうの出来事にすぎず、
「他岸の火事」で高みの見物でいられた。
二つは、それゆえに、独自の諜報機関構築が
可能となり、ときには海賊にも変身し
他国船を襲撃する中、
その都度彼ら敵の海男を捕虜にし、
豊富な情報収集に当たり、
攻撃材料の道具として活用したばかりか
本国ビジネスに応用した。
とりわけ英国が好んで活用した植民地ビジネスに
十七世紀頃から始まった「三角貿易」がある。
当時、活気のあったリヴァプールやプリストルの
港を利用し、出港した貨物船に、
英国製特産物とはいうものの、
その実、多くは自国製の武器を積み込み、
これをアフリカまで運ぶ。
そして現地の奴隷狩り商人
多くはアフリカ人現地有力ボス)に売りつけ、
ついでアフリカ黒人奴隷を買い、
西インド諸島や北米大陸に運び奴隷市場で売買する。
そして空になった船に、
欧州では珍しいタバコや綿花など南米産の商品を
積み込み本国に持ち帰る。
これに味をしめた英国!
十九世紀に入ると、アジアの植民地にも
この三角貿易を適用し
インド産のアヘンを中国に輸出し、
代わりに中国から本国に中国茶を運ぶ
独占ビジネスに着手し、
結果、暴利をむさぼり、
巨万の富を蓄えることになった。
この対英国植民地獲得戦争で
血にいっぱいまみれたフランスの怨恨たるや
いかばかりだったか。想像に難くない。
ところがあろうことか、
十九世紀に入ると、そのフランスに英国が、
しきりに友好サインをちらつかせ始めたのだ。
一体、この両国に何が起こったのだろうか。
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